ロンドン波瀾万丈記


 ヒースロー空港には午後1時過ぎの到着だった。ところがバッゲージがなかなか出てこない。待つこと30分以上(^^;。急ぎタクシーでホテルに向ったものの、途中で交通大渋滞に巻き込まれた。細切れの信号待ちにイライラしてしまう。ロンドンでの時間との闘いが始まった。何しろ到着日の午後と翌日2時までという、悲しくも短い滞在予定だ。
 予想以上の時間と料金オーバーに焦りながら、ホテルにたどりつくや、その足で即ナショナル・ギャラリーに向った。LNGは約10年ぶりの再訪だ。その間にもロンドンには来ていたのだが…。LNG到着はもう午後3時を過ぎていた。閉館の6時まで一体どのくらい見られるのだろう?!まずは脱兎のごとく北翼ギャラリーに向って走る。


ロンドン・ナショナル・ギャラリー (London National Gallery) 

エマオの晩餐 ◇


(クリックで大画像)
「エマオの晩餐」
1601年
カンヴァスに油彩 141X196.2cm

   
   とにかく、この作品に凝縮されたCARAVAGGIOの表現技法には驚嘆する。キリストの復活に驚く二人の弟子の如く...。「マタイの招命」で深化した画家は自分のヴィルトゥォーゾに確信を深め、溢れる才気をこの作品にぶつけたように思える。過剰なまでの技法の洪水!
 二人の弟子がエルサレム近郊のエマオへ向う途中、復活したイエスに出会ったが、それと気付かず、村で宿をともにする。 「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿がみえなくなった。」(ルカによる福音書 24・30-31)
 ここでのキリストは弟子たちも気付かなかった髭の無いつるんとした異相のキリストだ。今パンを祝福しようとしている右手は前縮法により画面から観者に向かう。その手の甲に当たる左上方からの光は神性を象徴するかのようだ。私の視線もその手から画面全体へと広がって行く。 
 二人の弟子は、画面右がペテロ(或いはルカ?)、画面左がクレオパと言われる。弟子ペテロは今目が開けてイエスであることを知り、驚きに両腕を広げる。その手は短(前)縮法により画面から迫力を持って突出する。大げさとも思える十字架を連想させる手の表現は、キリストの磔刑を想起させる。今、キリストは蘇り、彼らの眼前にいるのだ!クレオパは驚愕に、おもわず椅子を引きアームを握り締め身を乗り出す。緊張した手の表現する驚き。椅子を掴む右肘のほつれからこぼれる白の効果も素晴らしい。画面から突き出される肘の動きが観者に強調されるようだ。

 再度引用するならば、「カラヴァッジェスキの独自性は手の緊張の効果に集中したこと」(アンドレ・シャステル)。言い換えれば、画家は劇的緊迫感の表現技術を研究していたはずで、多分それは「聖マタイの招命」「聖マタイの殉教」で画家自身がその効果を確信したものだ。この作品にはその更なる実験として短縮法の効果を随所に盛り込んだのではないだろうか?

 この劇的場面に立会い、私たち観者にキリストへの注意を促すのが宿屋の主人だ。彼は弟子たちとの驚きとは異次元の好奇心でキリストを見詰めている。私たちも彼につられて場面に参加する。画家は観者をこの現場に誘うためにこそ絵画技法を駆使し、臨場感あふれる劇的画面を構成したのだ。何故ならばクレオパの右隣に空間、即ち私のための席が用意されているのだから...。

  CARAVAGGIOの宗教画を観た当時の人々はそのリアルな描写と迫力ある画面に驚いたに違いない。登場人物も身近に感じただろうし、観者がそこに立ち会っているかのような錯覚を覚えただろう。多分当時の人々がこれまで観た事の無い感じた事の無いゾクゾクするような臨場感。それを私はライヴ感と呼びたい。CARAVAGGIOが切り開いた革命的な絵画世界である。
  
 CARAVAGGIOの白の質感!
  
 巡礼者を表わす白い貝のブローチ。この質感にどうしても目が奪われてしまう。このホタテ貝の微妙で美しい線を丹念に描写している画家の息使いが感じられるのだ。この貝をはじめ、この作品における質感を伴った「白」の効果は抜群である。テーブルクロスの清々しい白さ、聖ペテロの腰のサッシュの鮮烈な白さ!そして、何よりもクレオパの驚く右ひじの破けた上着から覗く「白」!観者に向って画面から突き出るような白のハイライト効果を画家は実に巧みに計算している。


 CARAVAGGIOは傑出した静物画家でもある!



「果物籠」特別企画
 CARAVAGGIOはこの作品において、彼の静物画描写の力量を余すことなく示している。ある意味その過剰さは画家の気負いの現われとも思える。
 テーブルの上のガラス器と液体(白ワイン?)の質感をまず見て欲しい。光はガラスを透しテーブルにその翳を映す。写実描写のなんとリアルなこと!
 そして、テーブルの端に置かれた果物籠。痛んだ果物は人類の罪を、石榴は罪に打ち勝つキリストを表わすようだ。が、寓意はともかく、その自然描写の巧みさ!
 画家のパトロンであったヴィンセント・ジュスティニアーニ侯は「絵画に関する書簡」においてCARAVAGGIOの基本的な芸術信条に触れている。「彼にとって、優れた花の絵を描くことは、優れた人物画を描くのと同じ能力を要する」と...。
 なお、CARAVAGGIOはこの作品以降、静物画を作品中に描き込むことをしていない。


≪エマオの晩餐≫
  CARAVAGGIOは5年後の1606年にも同主題の「エマオの晩餐」を描いている。

 「エマオの晩餐」を主題にしたいくつかの作品を並列し、それぞれの作風やテーマの扱い方の微妙な違いを観てみたい。自ずとCARAVAGGIOの独自性が明らかになるように思う。人物の上半身で画面を構成するCARAVAGGIO作品が与える臨場感には驚くべきものがある。
 ちなみに、あくまでも私の好奇心からの比較で、美術史的な意味合いなど考えていないのですみません(^^;;



「エマオの晩餐」
デューラー
1510年 12.7×9.6cm
   
「エマオの晩餐」
ポントルモ
1525年 230×173cm

ウフィツィ美術館 所蔵
   
「エマオの晩餐」
ヤーコポ・(ダ・ポンテ)・バッサノ
1527年 100.6 x 128.6 cm
フォートワース キンベル美術館 所蔵



「エマオの晩餐」
ティツィアーノ
(Tetizuiano)
1535年 
カンヴァスに油彩
ルーブル美術館 所蔵


「エマオの晩餐」
カラヴァッジ(Caravaggio)
1606年
カンヴァスに油彩 141x175cm
ミラノ ブレラ美術館
 所蔵

「エマオの晩餐」
レンブラント(Rembrant)
1648年
板 油彩 68X65cm
ルーブル美術館 所蔵

 キリストはパンを祝福し、今気がついた弟子たち。画面左の弟子(クレオパ?)は身をのけぞらせながら、右の弟子(ペテロ?)は椅子から腰を浮かせながら驚いている。CARAVAGGIOの弟子たちのリアクションと反対のポーズだ(^^;。
もしかしてこの作品を知っていた画家が意図的に...ということもありうる...かな?(^^;; まぁ、キリストがなにやら静かな表情なのは同じだけれど...。画面左の宿屋の主人と少年が「この男は何に驚いているのだろう?」とでも言いたげにしているところが面白い(^^;;
 構図的にはダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の影響が見られるように感じる。キリストを中心とした遠近法と、円柱後ろの風景が画面に奥行きと広がりを見せている。 
 CARAVAGGIOはミラノ時代、「ティツィアーノの弟子」と署名していたシモーネ・ペトロツァーノの元で徒弟として修行していた。画家はティツィアーノの影響を受けていたと思われる。
。 
「カラヴァッジョ展」鑑賞記で触れたように、キリストの前のパンは既に割かれている。弟子たちがキリストであることに気が付き、驚いたその後の一瞬を描いた作品だと思われる。この後キリストは姿を消すことになるのだが...。
 1601年作品の表現の過剰さとは異質の心理劇を思わせる深みのある作品となっている。
 「カラヴァッジョ作品のうちでもっともレンブラントのヴィジョンを予告する」(Gregori 1985)
 今、キリストは祝福したパンを割いており、弟子たちは「まさか?」というように、キリストではないかと気が付きき始めたところだ。弟子たちの微妙な心理の動きが自然に感じられる。キリストの開いた口元は、左の弟子に話しかけているのだろう。ここにはLNGのCARAVAGGIO作品のような劇的な驚愕は無い。さりげない晩餐のテーブルで起こった驚きの心理劇が描かれているのだ。
 聖なる光はパンを割くキリストの手元を照らす。背景のニッチはまるで教会内の彫刻のようにキリストをニンブスで浮かびあがらせている(^^;。 画面から漂う静けさ、そして光と闇は、ブレラ美術館のCARAVAGGIO作品を連想させるものがある。レンブラントは間接的にであろうとも、CARAVAGGIOの影響を受けていたと思う。

2002/08/15 UP


 ゲストのバリサケオさんから「エマオの晩餐」を観ての、素晴らしい「光の考察」Reportの特別寄稿をいただきました。掲載をご了承いただきありがとうございました!


≪エマオの晩餐≫光についての一考察 ◇ (バリサケオさんによる考察)


               (クリックで大画像)
   この絵の光源は 一見 画面左手前の上方にあるように思えますたとえば テーブル上のパンの影 鳥を載せた皿の影 またイエスの背後の影を宿屋の主人のものとして補外すると 画面の左上隅に あるいはその延長線上に光源があることになります。 

 光源をこのひとつとしてしまうと 多くの影に矛盾が生じます。テーブル右 聖ペテロの前のボウル。この影は短い。ボウルにあたる光はかなり上方にあります。両手を大きく広げる聖ペテロの左ひざの上の白い布。これはテーブルの影の中になければならない。
 

 ≪クレオパの不思議≫ 

 画面左手の椅子から身をのりだすクレオパを考えて見ましょう。光源が左上方のひとつなら、クレオパの影はテーブル上に大きく広がらなければなりません。クレオパは背中全部に弱い光を浴びています。ということは、クレオパの頭上に光源がある。なぜなら彼が座る椅子の肘掛や背もたれには光があたらず陰になっているからです。しかし クレオパの背中は臀部まで陽側にある。光が上方からだけなら影になるはずです。

 カラヴァッジォは クレオパだけでも二つの光源のトリックをつかいました。クレオパの背中を照らす光は背後の低い位置からきています。それ故かれの背中は全面が明るいのです。しかしこれを写実的に描くと 椅子の背もたれが陽となります。さらに背もたれの影が背中に映る。クレオパが驚き身を乗り出す動作には肘掛椅子が必要です。しかし椅子は目立ってはいけない。

 画家は クレオパの背中に さえぎるものの無い光を与え その上に陰の背もたれを描いて椅子を目立たないようにしたのです。ここには クレオパの後方と椅子の前上方に 二つの光があります。 天才です。


 ≪白いテーブル≫

 クレオパのいくつかの光を考えると 彼の影がテーブルや壁に大きく映らなければいけません。カラヴァッジォはこれを無視してテーブル上の静物たちに光を与えました。

 白いテーブルクロスが映えます。パンや皿の影は短く強い。 ろうそくの光ではこの白さや濃い影は生まれません。テーブルと静物は上方からくる強い平行光線で描かれています。そうですこれはろうそくの光ではなく 昼間の光です。この白を出すには太陽の力を借りなければならなかった。これで聖ペテロの白い布の不思議が解決した。テーブルの影は短い。

 テーブルの端に短く垂れた白いテーブルクロス。テーブルの光源を上方からの日光だと考えると矛盾はありません。しかしその下に敷かれた模様の入った布は陰で描かれています。カラヴァッジォは模様布を夜の光で描いて 視線をテーブルに集中させました。白いテーブルクロスがいっそう映えます。


 ≪イエスの光≫

 イエスの光は難しい。 大きく突き出した右手。殆ど真横からの光です。 さえぎる宿屋の主人を貫いています。あるいは主人とイエスの間に光が発生したように。イエスの腕はイエスの体に影を作ります。この光は前方からです。顔を照らす光は左上手前から。宿屋の主人の存在を無視しているかのようです。

 実際に人間を置いていろいろな光で実験したいと思いました。 カラヴァッジォのすばらしさはいろいろな光を効果的に使いながら 不自然さをまったく感じさせない いやそれによっていっそうのリアリティを見せるところにあると思いました。それゆえ絵が感動的で 自然に絵の中に招き入れられるのでしょう。考え抜かれた光の使用法に改めてカラヴァッジォの天才を感じました。


≪エマオの晩餐≫光についての一考察 (図の番号入りバージョン)

 この絵の光源は 一見 画面左手前の上方にあるように思えます。 たとえば テーブル上のパンの影(line 1) 鳥を載せた皿の影(line 2) またイエスの背後の影(a)を宿屋の主人のものとして補外(line 3)すると 画面の左上隅にあるいはその延長線上に光源(A)があることになります。

 光源をこのひとつとしてしまうと 多くの影に矛盾が生じます。 テーブル右 聖ペテロの前のボウル。この影は短い。ボウルにあたる光はかなり上方にあります(line 4)。両手を大きく広げる聖ペテロの左ひざの上の白い布(b)。これはテーブルの影の中になければならない。(line 5)

                            (クリックで拡大画像)

≪クレオパの不思議≫

 画面左手の椅子から身をのりだすクレオパを考えて見ましょう。光源が左上方のひとつなら、クレオパの影はテーブル上に大きく広がります(line6)。クレオパは背中全部に弱い光を浴びています(c)。ということは、クレオパの頭上に光源がある。なぜなら彼が座る椅子の肘掛や背もたれには光があたらず陰になっているからです(d)。

 しかし クレオパの背中は臀部まで陽側にある。光が上方からだけなら影になるはずです。 カラヴァッジォは クレオパだけでも二つの光源のトリックをつかいました。クレオパの背中を照らす光は背後の低い位置からきています。それ故かれの背中は全面が明るいのです。
 しかしこれを写実的に描くと 椅子の背もたれが陽となります。さらに背もたれの影が背中に映る。クレオパが驚き身を乗り出す動作には肘掛椅子が必要です。しかし椅子は目立ってはいけない。

 画家は クレオパの背中に さえぎるものの無い光を与え その上に陰の背もたれを描いて椅子を目立たないようにしたのです。ここには クレオパの後方と椅子の前上方に 二つの光があります。 天才です。


≪白いテーブル≫

 クレオパのいくつかの光を考えると 彼の影がテーブルや壁に大きく映らなければいけません。(line 6) カラヴァッジォはこれを無視してテーブル上の静物たちに光を与えました。白いテーブルクロスが映えます。 パンや皿の影は短く強い。 ろうそくの光ではこの白さや濃い影は生まれません。テーブルと静物は上方(B)からくる強い平行光線で描かれています(line 1 24)。

 そうです これはろうそくの光ではなく 昼間の光です。この白を出すには太陽の力を借りなければならなかった。これで聖ペテロの白い布の不思議が解決した(b)。テーブルの影は短い。

 テーブルの端に短く垂れた白いテーブルクロス(e)。テーブルの光源を上方からの日光だと考えると矛盾はありません。しかしその下に敷かれた模様の入った布は陰で描かれています(f)。カラヴァッジォは模様布を夜の光で描いて 視線をテーブルに集中させました。白いテーブルクロスがいっそう映えます。


≪イエスの光≫

 イエスの光は難しい。大きく突き出した右手。殆ど真横からの光です(C)。 さえぎる宿屋の主人を貫いています。あるいは主人とイエスの間に光が発生したように。イエスの腕はイエスの体に影を作ります。この光は前方からです。顔を照らす光は左上手前から。宿屋の主人の存在を無視しているかのようです。実際に人間を置いていろいろな光で実験したいと思いました。

 カラヴァッジォのすばらしさはいろいろな光を効果的に使いながら 不自然さをまったく感じさせない いやそれによっていっそうのリアリティを見せるところにあると思いました。それゆえ絵が感動的で 自然に絵の中に招き入れられるのでしょう。

 考え抜かれた光の使用法に改めてカラヴァッジォの天才を感じました。

                                 バリサケオ さん(ベルギー在住)特別寄稿
                                                (2002/08/25)
                                     (多謝多謝!from 管理人)



 2002/08/25 UP
  


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