REPORT
 「カラヴァッジョ展」鑑賞記 ―



 本当は公開初日に観たかった「カラヴァッジョ 光と影の巨匠-バロック絵画の先駆者たち」展だったが、1週遅れの10月6日(土)にようやく観る事ができた。目黒の東京都庭園美術館には混雑を避け夕方に入館。入場者もまばらで鑑賞にはもってこいの環境。ゲストのtoshi館長のアドバイスに感謝!。でも空いていると、反対に人気の程度が気になったりしてね(^^;
 入口で音声ガイドのヘッドフォンを発見、さっそく借りる。CARAVAGGIOをフルコースで楽しむ用意万端(笑)。そして徐に展示場を見ると、おおっ!順路の初めは「果物かごを持つ少年」ヽ(^。^)ノ。オープニングの1曲で総立ち!状態になった。(意味わかります?)

 と言う事で、順路を追っての感想です。


1.「果物かごを持つ少年」    何といっても少年の抱える籠の中の果物が瑞々しい。画家の写実描写の凄さを見る。アンブロジアーナの「果物かご」の静物画としての完成度は殊更に素晴らしかったが、この果物・静物画は初期の画家の得意とする分野だったに違いない。音楽家は耳が鋭く、画家は目が鋭い。本物と見紛うばかりの果物はその確かな観察眼によるものだろう。果物かごが鮮烈な印象で前面にせまり、片肌脱ぎの少年は心なしか後退して見える。音声ガイドによればギリシアのゼウクシスの故事に習い、少年の描写を違う様式で描いたのかも、との事だった。この存在感あふれる果物を描く色彩の豊かさは、やはりベネチア派の影響を受けたものだろうか?CARAVAGGIO初期の絵画は確かに色彩に溢れている。
 
     
 私がまだCARAVAGGIOに目覚める前、ボルゲーゼ美術館で初めてこの絵を観た時、この少年のぽってり具合がなまめいて苦手だと思った(^^;。やはり私にはこの少年のシナをつくっているように思えて、CARAVAGGIOバイ・セクシャル説に荷担したくなるのだ。イコノロジー的解釈をも併せて考えれば、果物は「はかなさ(ヴァニタス)」の寓意だから、少年も果物も美味しい食べ時はつかの間….とか、ね。すみませんっ!(^^;;;
 初期のこの作品でもCARAVAGGIO特有の光と影を見る事ができる。左上方からの光が投げかける影は私には三重構造になっているかのようにも思える。影は少年を引き立て、少年は果物かごを浮き上がらせる。そう見えるのですが…?
 ともかく、カタログの解説にはまっとうな解釈が書いてありますので、そちらの方を御参照下さい(^^;;;
 
   
2.メランゴをむく少年  この作品には帰属問題があったので、あえてこのサイトの「WORKS」には載せていないが、カタログ解説のMariniさんはCARAVAGGIO原作説を確証したそうだ。画家の原作だとしてもかなり初期(1597年頃)の作品と考えられ、画家のオリジナリティ確立への過度期的作品だとも思われる。あえて画家らしさを捜すと、光と影、シャツブラウスの白に求められるような気がする。
 実物を目の前にすると画面から静かな暖かさを感じ、この右腕の長い(^^;少年の表情もなかなか良い感じだ。構図的にも確かに面白い。でも、らしくない。素直すぎるし、画家特有のメリハリが少なく、ファンとしては若干寂しい。作家の作風はこの後変わって行ったのだろう。憂いを含んだ少年の微笑は謎だ。うつむき加減は何かを物語るのだろうか?
 カタログによれば、少年がメランゴをナイフで剥いているのは、どうも寓意としての解釈が様々あるようだ。中でもこの少年がキリストで人間の原罪を贖っているのだ説は、イコノロジーが苦手な私には新鮮。現代に生き、更に文化的な教養の無い私には、こういった寓意の謎解き遊びのような作品は困る(笑)。
  
  
3.ナルキッソス  ギリシア神話の中でも「ナルキッソス」の話はあまりにも有名過ぎる。敢えてこのテーマを扱った画家は何を思っていたのだろうか?自らの内なるナルシズムか?それとも…?
 ナルキッソスは泉に映った自分の姿に恋焦がれ、水の中の美少年を抱こうと、今手をかき入れたところだ。エコーに攣れなくした罰はもうじき成就する。ナルキッソスの溜息が画面から聞こえるようだ。
 しかし、悔しいのは美少年ナルキッソスの俯いた横顔も水に映った姿もともに不鮮明で、せっかくの美少年ぶりがよくわからない。絵にも描けない美しさ??。私がCARAVAGGIOらしいと特に思うのは、光を受け白く輝くナルキッソスの膝!この肌の輝きはカピトリーニの「洗礼者ヨハネ」に通じる。ナルキッソスの膝は腕(と泉に映る腕)に囲まれた円間の中心で輝く。ドーリア・パンフィーリの「洗礼者ヨハネ」の眩しいほどの肌の輝きを思い出すと、この頃のCARAVAGGIOは光の織り成す輝きを描こうとしていたのではなかと思ってしまう。また、俯くナルキッソスの顔と髪そして衣装はドーリア・パンフィーリの「悔悛のマグダラのマリア」に通じる。亜麻色の髪、俯く表情。衣装のシルク・ジャガード模様、ブラウスの白は絹の質感を効果的に表現している。真のCARAVAGGIOらしさではないけれど画家が今切り開こうとしている世界を見ることができる作品だ。

 参考:新発見画像によるIMPRESSION
  
  
4.マグダラのマリアの法悦  この作品もコピー問題のため、このサイトの「WORKS」に入れていない。しかし、今回実物を観ると、個人的には原作のように思われる。根拠は…と問われると困るのだが、その表情と肌の輝き…とでも言っておこうか(^^;。
 ベルニーニの「聖女テレサの法悦」に影響を与えたと思われるこの構図は素晴らしい!光と影がマリアを浮かび上がらせ、その表情に陰影を与える。かすかに開いた目からは涙のしずくが流れ落ちる。一瞬の溜息をも聴いてしまいそうな薄く開いた口元。赤毛の長い髪がドラマチックにマリアに絡み付いている。ねじれた首と露出する肩、ふくらみのある腹、指を組む手元…。白い衣装と赤いガウン。どれを取ってもCARAVAGGIOらしい、革新的な作品だと思う。
 静かな慟哭とカタルシス…。深い闇が物語る画家の内面を考えてしまう。どうやらこの作品を気に入ってしまった(笑)
       
   2001/10/20 UP
  
5.祈る聖フランチェスコ  本来の色調なのか茶系の濃淡の彩られた聖フランチェスコとアトリビュート(持物)の髑髏・磔刑像・書物を照らす光と深い闇が画家の仕事を物語る。背後の樹木は森の中であることを示唆するのだろうか?苦悩を滲ませた祈りの静けさが画面を覆う。深く暗い森はCARAVAGGIO自身の心模様かもしれない。
 この作品は晩年近くに描かれたものと考えられている。逃亡生活による焦燥感を現すかのように、聖人の祈りに託し自分自身の苦悩の祈りを描いているかのようだ。画面の森の闇の深さが、痛々しいまでの孤独感を強調している様に感じる。この聖フランチェスコは画家の自画像説もあるようだが、心象的自画像であることは確かだと思う。
 それにしても私が画家らしさを感じたのは聖人の額の皺だ(^^;。後期の作品の登場人物達の皺の多さは何なのだろう?画家の苦悩が乗り移ったかのような皺・皺(^^;;。決してきれいごとは描かない画家ではあるけれど...ね。そして持物。とりわけ光を受けた髑髏の写実性。聖人の袖のほつれ具合など、相変わらずの詳細な写実に思わず、らしいな、と思ってしまう。しかし、この作品の暗さは画家の内面を見るようで、観ていて辛い。 
   
  
6.瞑想の聖フランチェスコ  聖フランチェスコのアトリビュートである髑髏は「はかなさ」の象徴だ。髑髏を手にした聖人は生のはかなさ・死について瞑想をしているようだ。暗く冷たい洞窟の中で聖人は瞑想を続ける。鼻先と指先の赤味はその寒さを現しているという。徹底したリアルさを追及する画家らしさと言うべきか?まぁ、こういうところが嬉しく、好きになってしまう所以なのだが(^^;。
 聖人の真摯な瞑想には画家自身の共感がこもっているように感じられる。はかなさ・死は波乱万丈の画家自身の隣に絶えず存在していたはずだから...。
 先の「祈る聖フランチェスコ」に比べると、落ち着いた色調のなかにもメリハリのある抑制の効いた緻密さがあり、優れた作品だと思う。この頃はまだ画家自身も元気だったのだな、と妙に感慨深かい。痛々しさを感じなくて済むこともあり、この作品の方が「祈る...」よりも好感度が高くなってしまう。

 
7.エマオの晩餐  ミラノのブレラ美術館で観た時は、正直なところ地味な作品だと思った。先にロンドンの「エマオの晩餐」も観ていたし、あの劇的な驚きのシーンに比べると静かでもの足りないと思っていた。ところが…私が無知だったのだ!テーブル上のパンの割れ具合に気がつかなかった(^^;;;。ロンドンのエマオは、今まさにキリストであることがわかった瞬間の驚きを描き、ミラノのエマオは、その驚きの直後のシーンを描く。故にこの作品ではキリストの前のパンは時間の経過を示すように割かれている。
 「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿がみえなくなった。」(ルカによる福音書)
 なるほど、それに気がつくと画面から感じられる一瞬の静かな落着きが理解でき、登場人物達の表情にも合点がいく。
 彼らはキリストの復活の奇跡を目の前にし、イエスの言葉に身を乗り出し耳を傾けている。二人の弟子の眼差しは真剣で尚且つ驚きを示している。左横からの光を受けた復活の成就を説くキリストの表情は複雑だ。人間の贖罪を負ったほろ苦さが混じっているような...。静かな表情だが、確かにその表情の演技は渋い(^^;。耳を澄ましていると画面から、キリストの低く静かな声が聞こえてきそうだ。
 私がブレラで観た時、画面構成にアンバランスなものを感じた。右3人の写実性に比べ左が弱い..と。しかし今回改めて鑑賞すると、そのキリストの背後に広がる闇の重さを感じる。聖書記述の幻想性にも寄るが、画家自身の当時の内面を表わすかのような沈鬱な闇がこの作品を支配しているように見える。光と闇の織り成すなかに画家の静かな気迫が伝わってくる。素晴らしい作品である。
  



「カラヴァッジョ作品のうちでもっともレンブラントのヴィジョンを予告する」(Gregori 1985)
   <カタログ説明 より>

 
8.執筆する聖ヒエロニムス  この作品はまるで画家自身を描いたかのように思える。一心不乱に研究・執筆する気迫こもる聖ヒエロニムス。腕を伸ばしたペンの先に髑髏=生のはかなさ・死。対峙するかのようでもある。聖ヒエロニムスが反宗教改革の拠所となったからだろうが、画家はこの聖人の絵を残っているだけでも3枚描いている。画家自身の深い共感があったからではないか?
 この作品は赤い枢機卿のガウンを纏っているので、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために描かれたとも言われているようだ。不祥事もみ消し用贈答作品だとしても、画家は自分を聖人に託して主張しているように見える。
 波乱万丈の画家の生活には絶えず暴力と死が隣あわせだった。死・はかなさを身近に見据えていたからこそ、画家独自の宗教感を育み、現実の世界にこそ神を見たいと思ったのではないだろうか。画家の描く聖人たちは将に身近に存在するかのように描かれている。この聖ヒエロニムスでさえも...。
 画面から静かでありながら強い意思と緊迫感を感じるのは、その水平に伸ばした腕と構図のせいだろうか?白と赤の対比にも劇的な緊張感を覚える。タッチはやや粗いが、光と闇の深さはまさに画家らしいと思った。

2001/10/30 UP
   
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