REPORT
 2002年 秋 シチリア・ローマ鑑賞記 


 ローマ、ナポリ、マルタ島と行ったら、シチリア島も訪ねなければならないだろう。と、いうことで、2002年秋、エトナ火山爆発のニュース映像も目に新しいまま、シチリアはカターニャ空港に向けて出国した。行けばなんとかなる...持ち前のアバウトさで出かけた私は、やはりなんとかなったことを神様に感謝した。イタリアでは何故か神様を身近に感じられる。だって、聖人や奇蹟も多いでしょう?(笑) 

 シチリア島に残っているCARAVAGGIO作品は4枚だったのだが、そのうちパレルモの「聖ラウレンティスと聖フランチェスコのいる生誕」が1969年、盗難により行方不明となっている。現在はシチリア州立メッシーナ美術館に「羊飼いの礼拝」「ラザロの蘇生」、州立シラクサ・ベッローモ美術館に「聖ルチアの埋葬」の合計3作品が残っている。この貴重な3枚を見るのが今回の旅のメインだ。パレルモにも寄りたかったのだが、絵は失われているし日程的にもきつかったので、代わりにローマで未見のコルシーニ美術館の作品を見ることにした。
 ローマに寄れば、やはり再見したい作品が多い。今回は聖ルイジ・ディ・フランチェージ教会、聖アゴスティーノ教会、カピトリーニ美術館を再訪した。この旅行で観た作品は全部で10枚になる。今回はCARAVAGGIO作品所蔵美術館・教会のほかにも訪れた、シラクサの「ネアポリ考古学公園」「パオロ・オルシ考古学博物館」とローマの「スパーダ絵画館」も併せて紹介したいと思う。

 なお、実際の旅行は、カターニャ→タオルミナ→メッシーナ→シラクサ→ローマの順だったが、ここでは、マルタ島の牢を逃れてシチリアに上陸したCARAVAGGIOが辿った道筋を追うことにする。即ち、シラクサ→メッシーナの順で紹介したい。今回寄らなかったパレルモの失われた「降誕」にも触れたいと思っている。が、実際にCARAVAGGIOはパレルモを訪れたのか?という疑問説もあるらしい(^^;
 なお、いつも付記していたお気楽旅行記(笑)は、別途「旅行記」とし独立させた。でも結局、この鑑賞記だって、お気楽旅行記の続きなのだけどね(^^;;
 

◆ シラクサ 鑑賞記◆

 


シラクサ 「聖ルチア教会」

シラクサの空は濃青色だ...
 1606年5月にローマで殺人を犯してしまったCARAVAGGIOは、サビーナ、ナポリと逃れ、1607年7月にマルタ島に渡った。「洗礼者ヨハネの斬首」を描くことにより聖ヨハネ騎士団の名誉騎士の称号を得たものの、1608年、上級騎士との喧嘩でサン・タンジェロ砦の牢獄に捕らえられてしまう。その年の10月、協力者の手引きで脱獄した画家は、小舟でシチリア島に向ったのだった。
 ということで、1608年10月にCARAVAGGIOはシラクサに辿り着く。画家はこの年の暮れにはメッシーナに移っているので、正味滞在は2ヶ月ぐらいなものだ。その間、シラクサで聖ルチア大聖堂のために「聖女ルチアの埋葬」を描いている。聖女ルチアはシラクサ出身で、その殉教が行われたとされる場所にこの聖堂は建っている。
 なお、現在は海に近い聖ルチア教会から絵を湿気から守るため、州立ベッローモ絵画館に展示されている。私も聖ルチア教会を訪ねたのだが、残念な事に教会の扉は閉じていた。外回りの回廊を観て廻るだけとなったが、ここにあったのだと思うと感慨深かった。


◆ シチリア州立シラクサ・ベッローモ美術館 (Galleria Reregionale di PALAZZO BELLOMO di SIRACUSA

 その日、シラクサは朝から雨が降っていた。何故か今回の美術館巡りは雨に縁がある。午後には晴れるのだが...。ホテルは駅の近くなので、ドゥオモや美術館のあるオルティジア島にはタクシー移動だ。開館一番乗りをここでもしてしまう。
 この絵画館はベッローモ宮にあり、宮殿建物の構造も興味深い。入り口の受付けでCARAVAGGIOの絵はどこか尋ねると、中庭の階段を上るように教えられた。館員たちも今配置に着こうとしているところだ。この絵画館の一番のメインはCARAVAGGIOではなく、アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina)の「受胎告知」だ。が、私はもちろん我が愛する画家の絵に直行した。


◇◇ 聖女ルチアの埋葬 ◇◇


(絵をクリックすると大画面
「聖女ルチアの埋葬」
1608年 
カンヴァスに油彩 407.7X299.8cm




参考Report
(David Bierk氏の御冥福をお祈り居たします)
   1608年、シラクサに逃れた画家は、ローマでの旧知の友人である画家マリオ・ミンニーティの紹介で、シラクサのサンタ・ルチア聖堂の祭壇画「聖女ルチアの埋葬」の仕事を受注する。

 「黄金伝説」(Jacobus de Voragine,Legenda aurea)によると、ディオクレティアヌス帝時代の304年、シラクサの裕福な乙女ルチア(ルキアとも言う)は貧しい人々に施しを与え、また処女でいることを決心していた。しかし、財産を施しに使ったことを知った婚約者が、彼女がキリスト教徒であることを密告したため、残酷な手段の処刑を言い渡され、最後には喉に刀を突き刺され殉死した。

 カタコムベとみられる石窟を背景に埋葬は行われようとしている。X線撮影によると、聖女ルチアの首は当初切り離されていたが、後に傷口を残した形で描き直されているという。「黄金伝説」では最後に首を刺されたことになっているのだが、初期構想において切り離された首だったとは…?。「黄金伝説」によれば、ルチアを死に追いやった裁判官のパスカシウスは、その悪行が皇帝の知るところとなり斬首されたという。画家の脳裏に、その時聖女ルチア斬首のイメージが浮かんだのだろうか?

 画家の執拗な斬首イメージの反復は、イタリア・バロック期における日常的な斬首刑シーンを理由とするだけでは無いと思う。後の自虐的な自画像としてのゴリアテの首を想起するに、彼自身斬首という、自己の首の幻影を見詰め続けていたにちがいない。

 この作品はメッシーナ美術館と違い、自然光で観る事ができた。右手の窓は木板で塞がれているのだがその間から光が差込む。絵の光源を考慮した自然光だとも思える。しかし、絵の前に柵があり、近接することができず鑑賞者(私)は困った。回り込むようにして、右側だけ接近して観ることができる。

 まず、私が驚いたのはメッシーナ作品と較べて画面が明るいことだった。これは洗浄が行われた事と、この自然光による展示ということからかもしれない。しかし、下塗りに明るめの茶系色を用いたためのような気がする。絵は残念なくらい痛んでいる。二人の墓掘人夫の足元は殆ど消えかかっているのだ。この人夫たちを大きく画面前面に出した構図こそ、CARAVAGGIOらしい大胆さであり、素晴らしい迫力のある構図構成となっている。この尻部描写の圧倒的迫力はどうだ!光を返し画面より観者へと突出するのだ。光は粗野な男達の筋肉をも浮上させる。 

 そして、中央にいる助祭の纏うガウンの赤い色が鮮烈に目に入る。ガウンの下は濃緑衣装だ。ビロードのような光沢を見せる濃緑色は補色の赤を一層鮮やかに観る者の目に焼き付ける。助祭の組み手の表情は、ダブリンの「キリストの捕縛」をも思わせる。あの、あきらめの身振りだ...。この助祭の完成度は素晴らしく、存在感のある佇まいとともに、一服の絵として独立させても充分鑑賞に堪えるのではないかと思った。

 この助祭の視線の落ちた先に聖女ルチアは横たわる。観て欲しい。聖女は墓掘り人夫たちと助祭の描く楕円環の中に横たわっているのだ!!「ナルキッソス」の円環を想起する。聖女の身体は短縮法で描かれており、その丸い肩の線と華奢な姿は痛々しさを見せる。しかし、何と言ってもその首の傷だ。しかし、柵により首の傷に接近できない。切り離されていた印を確認しようと思っていたのだが...。聖女のうなじを、眉間を、聖なる光が照らし出す。淡色の一筆が光を生む。聖女の纏うブラウスの白が光を受け光を放つ。やはりCARAVAGGIOの白だ。 


「洗礼者聖ヨハネの斬首」
1608年
カンヴァスに油彩 286x213cm

ヴァレッタ 聖ヨハネ大聖堂 所蔵
   そして、この場を取り仕切る官憲、司祭、悲しみに暮れる人々が、右斜めからの横断斜線を形成しながらフリーズ状に描かれている。司祭の祝福の手の先に聖女は横たわり、左の墓堀人は司祭を見る。司祭の被る帽子は大きく、この側面の白は印象的だ。人々の手の表情は悲しみを、せつなさを語る。特に左側女性の手の表現には心情が表れている。しゃがみ込み、両頬に手をあて嘆く老婆の被るターバンにも光は注ぐ。この老婆の姿は、マルタの「洗礼者聖ヨハネの斬首」の老婆(サロメの乳母?)をどうしても髣髴させる。つい最近の作品と同モデルかも知れない。思い出して描いたとしてもおかしくはない。

 上部に広がるカタコムベの空間と、司祭の杖からの斜線状に導かれるこの人物群像との拮抗、そしてふたりの墓掘り人夫を前面に置く意表をつく迫力のある構図。墓掘り人と助祭の円環の中に横たわる聖女。画家により計算しつくされた構図に溜息をついていた私だった。
 しかし、更に聖ルチア聖堂の祭壇を見上げる信者の目の位置から考慮されたものと言う、宮下規久朗氏の論文「カラヴァッジオ≪パレルモの生誕≫について」を読み、聖ルチア聖堂の祭壇画として、この絵を観たかったな...と思う。画家は置かれる祭壇画の位置により構図を決めたに違いないから。そしてその時、聖女ルチアの殉教の悲劇が画面から迸るようにに観者(私)の胸に訴えるだろうから...。

  この作品を画家は、ほぼ2ヶ月ほどで完成させたと思われる。シチリアでの作品には、保存状態の悪さだけとは言い難いタッチの粗さが目立つ。速や描きのせいなのか、以前の緻密な画風とは違うのだ。ラフな筆使いの部分には、前述の友人マリオ・ミンニーティの制作参加を推測する説も有る。正直を言うと、この「聖女ルチアの埋葬」は中央の助祭に昔の画家を観る事ができるから、まだ救われた気がした。最盛期の画家の作品が無性に懐かしくなってしまうのだ....(^^;;;。
 この作品は同じ祭壇画でも、「慈悲の七つの行い」の人物の緻密な構成から、「洗礼者聖ヨハネの斬首」の空間処理における人物の縮小化傾向を引き継いでいる。画風を変える心境の変化もあったのだろうか?
 

<「斬首」テーマの一考察>(ド・シロートの独断と偏見です(^^;;)

 何故画家は初期構想において聖女の首を切り離したのだろうか?「黄金伝説」によれば、聖女は最後に首を刀で刺される…のであって、斬首という記述は無い。画家の斬首への初期イメージは何処からきたものなのか?
 聖女ルチア(Luchia)は<光(lux)>を意味し、そこから「眼=眼病」の守護聖人として描かれる例も多い。また、2頭の牛と千人の男でも聖女を動かせなかったことから、その場面も多く描かれる。単独では、喉に刀を突き刺され、手に聖書と棕櫚を持つ。しかし、画家はその主題を取上げなかったのだ...。 

  斬首を主題とした残存する作品を時系列に並べてみよう。

制作年 作品名 所蔵 都市
1598-99 メデゥーサの首 ウフィッツィ美術館 フィレンツェ
1599 フォロフェルネスの首を斬るユディット バルベリーニ絵画館 ローマ
1600頃 ダヴィデ プラド美術館 マドリード
       
1606 球技が原因の喧嘩で、友人を殺害し、5月31日ローマを逃亡。
       
1607 ゴリアテの首を持つダヴィデ 美術史美術館 ウィーン
1607頃 洗礼者の首を持つサロメ ナショナルギャラリー ロンドン
1608 洗礼者聖ヨハネの斬首 聖ヨハネ大聖堂祈祷所 ヴァレッタ
1608 聖女ルチアの埋葬 州立ベッローモ美術館 シラクサ
1609-10 洗礼者の首を持つサロメ 王宮 マドリード
1609-10 ゴリアテの首を持つダヴィデ ボルゲーゼ美術館 ローマ

  驚く事に制作年は集中している!!


「メデューサの首」
1598-99年頃
カンヴァスに油彩 60x55cm
フィレンツェ ウフィッツィ美術館 所蔵
   「メデューサの首」で画家は恐怖の叫びをあげる見事な表情により傑作をものにした。怒髪の蛇は衝撃に痙攣し身を捩る。切断された首からは鮮血が噴出走る。メデューサに相応しい驚愕の断末魔である。ウフィッツィ美術館で観た時、私はその生々しい迫力に惹かれた。「内面から湧き上がって来る恐怖感を表現しようとした」とアルフレッド・モワールは言う。「後に描かれた≪ゴリアテ≫の首に自分の顔を描いたショッキングな自画像を確実に予告している」と。(「カラヴァッジオ」/ 美術出版社)

 画家は何故か斬首の恐怖感を内に秘めていたと思われる。「フォロフェルネスの首を斬るユディット」では、その恐怖感は眼を剥いた断末魔の形相に集約される。「ダヴィデ」を経て、しばらくは「斬首」のイメージを絵画化することもなく、画家としての最盛期を迎える。しかし…1606年の殺人によるローマ脱出は、また「斬首」の恐怖感を画家に甦らせたのではないか?
 

「ゴリアテの首を持つダヴィデ」
1609-10年
カンヴァスに油彩 125X101cm

ローマ ボルゲーゼ美術館 所蔵
    逃亡の地をさすらう画家の作品に、また「斬首」のイメージが頻出する。なかでも、マルタでの「洗礼者ヨハネの斬首」(1608年)は聖者の理不尽な斬首が、聖者の首から流れる血による画家自身のサインにより意識化されていることに気付く。それは、マルタ騎士となった画家の誉れであると同時に、斬首の恐怖を再び思い出させた可能性もあり得るのではないだろうか?

 「洗礼者聖ヨハネの斬首」完成から間も置かず、更なる逃亡の地シチリアのシラクサで、その年の末には「聖女ルチアの埋葬」を描くことになった。シラクサの元老院が聖女ルチアの絵を依頼した時、画家は黄金伝説を読み解いただろう。その時、「首を剣で刺す..」が「斬首」となる強烈なイメージが画家の脳裏にまざまざと浮かんだのかもしれない…。

 この後も、自己の斬首の幻影に脅かされていったのだろうか。晩年の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」では、遂にゴリアテは自虐的な画家自身の自画像となる….。


シラクサ はまだ続きます(^^;


2002/11/30 UP


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