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◆ マルタ島観戦記

 1606年、球技の喧嘩で殺人を犯しローマを逃れたカラヴァッジオはナポリを経、1607年聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の当時拠点であったマルタ島に移った。目的は聖ヨハネ大聖堂の絵画の仕事により、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)の騎士の称号を得るためだと言われている。
 聖ヨハネ騎士団は十字軍の医療支援を発祥の源とする宗教騎士団である。が、時代の様相の変化に伴い、対イスラム勢力への戦闘的騎士団へと性格を変えて行った。騎士団は当時拠点にしていたロードス島でオスマントルコ攻防戦を繰り広げ、1522年敗退後各地を転々とし、1530年スペイン王カルロス5世の領有するマルタ島に拠を移した。以後マルタ騎士団とも言われる。
 転拠後1565年、オスマントルコがマルタ島を襲った。マルタ騎士団は総団長ラ・バレット指揮の元、オスマントルコ戦に勝利しマルタを死守した。それはカラヴァッジオのマルタ行から遡る事未だ40年ほど前の出来事であり、レパントの海戦と共に地中海世界の人々の記憶にまだ新しい。輝かしい騎士団の勝利と栄光にあこがれを抱くのは、当時に生きた男子として、特に気性も激しく度々帯剣をした好戦癖のあるカラヴァッジオには当然のことと理解できる。
 当時の団長は、ラ・バレットの後を継いだアロフ・ド・ヴィニャクールだった。カラヴァッジオがマルタで制作した絵画は現存している限りでは5枚であるが、2枚のモデルはヴィニャクールである。う〜む、よほど騎士の称号に固執していたのかも(笑)。ちなみに聖ヨハネ騎士団では騎士は貴族(青い血)出身に限られていた。
 現在ルーブル美術館にある「小姓をつれた鎧姿のアロフ・ド・ヴィニャクール」によって名誉騎士(カヴァリエーレ・ディ・グラッツィア)の称号を得たという。管理人がルーブルに行った時は未だカラヴァッジオに興味を抱く前だったので、残念ながら実物の記憶が無い。ピッティ美術館の「マルタ騎士の肖像」なら覚えているのだけれど(^^ゞ。(追記:2003年夏にルーヴルで観ました(^^))

 ということで、2000年10月、マルタ島に残る「洗礼者聖ヨハネの斬首「聖ヒエロニムス」(モデルはヴィニャクール)に対面すべく、マルタ共和国首都バレッタにのり込んだ。バレッタはほぼ当時のまま、要塞都市としての偉容を保ち、現在はユネスコの世界遺産にも指定されている。
 聖ヨハネ大聖堂の祈祷堂にはフィレンツェでの修復から戻ったばかりの輝かしい大作「洗礼者聖ヨハネの斬首」が祭壇奥に飾られていた。残念ながら祭壇の前に立ち入り禁止のロープが掛けられており、間近で観る事ができない。しかし、修復の成果で美術書の黄ばんだイメージが吹き飛んでしまうほどの迫力だった!聖ヨハネは上方からの光により白い肌を曝し、その血は鮮明な赤である。自分の目では確認できないけれど、そこには血色の絵の具で「f Michela..」と署名されているはず(ロープを乗り越え祭壇に上り確かめたかった(^^;)。
 「f...」は「騎士」なのか「描けり」なのか…?私の独断と偏見では「騎士」ですね、やはり。騎士団の都市バレッタでは騎士である事が名誉であり存在理由となる。多分強烈な自意識過剰の騎士達に囲まれていれば、負けん気の強いカラヴァッジオは「俺も騎士だ!」と自己主張したくなるはず。
 現地ガイドのMさんによると、昔は祈祷堂の上方に窓があり、その光の効果を考えて描かれたと言う。スポットライト的に登場人物達に差し込む光の源、祈祷堂(付属美術館)の天井近くに光差す窓を幻視してしまった。
 
 聖ヨハネ聖堂自体も実に興味深かった。騎士団は使用言語毎のグループに分かれて生活をしていたようで、イタリア語、フランス語、スペイン語、英語等、聖堂内の礼拝所も言語圏別に持っていた。その装飾もお国柄が出ていて、特にスペインの礼拝所は見たとたんそれとわかる壁面装飾(アラベスク彫刻がくどい(^^;)で微笑してしまった。また英国は当時既に英国国教会が設立されているので、ローマ教皇が認知するマルタ騎士団では少数派だと思われる。と言うのも礼拝所はとても小さく、簡素で飾り気があまり無い。カトリックの牙城スペインとは大した違いである。英国騎士団は案外肩身の狭い思いをしていたのでは...などと想像してしまった(^^;。そうでもなかったのかな?
 それに代々の騎士団総長が寄付をした祈祷台だとか素晴らしい美術工芸品を見ていると、騎士団総長になるのにもお金が必要なこともよくわかった(^^;。何時の世も同じかもしれない(笑)。聖堂の地下にはラ・バレットから3代の総長の墓がある。ラ・バレットと言えば塩野七生さんの「ロードス島攻防記」でもおなじみの登場人物である。マルタでの対オスマン戦役では彼が指揮をとり、マルタを死守した。首都である城砦都市バレッタは彼の名から由来している。
 
 現地ガイドのMさんの話によると、何と3週間前にTBSのクルーがCARAVAGGIOのマルタでの足跡を求めて取材に来たとか。サンタンジェロ砦の牢屋も取材したそうだ。当然私も行かねばなりません(笑)。

サンタンジェロ砦
サンタンジェロ砦
 という事で、1608年にCARAVAGGIOがマルタ騎士との争いにより投獄された牢屋を探しに出かけた。しかしMさんの話による「穴にフタをしたような」という牢獄は、なかなかわからなかった。大体この城は観光地化されてなく、ただ広いだけで困ってしまった。門付近にいたおじさん達も「知らない」と言うし、Mさんの言う形状に近い穴を見付けて写真に撮ったものの違ったようだ。
 いずれにしても、CARAVAGGIOは協力者を得て、この城から縄を伝い降り脱獄し、小船でシチリアへ逃れた。

 ちなみに、2001年2月18日放送、TBS系デジタル放送のBSiの番組「不思議の名画」でTBS取材班の成果を見ることができました。気になっていた牢獄の穴は砦内を通った時見ていました(^^;

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