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Chronology
― 略年表 ―


Michelangelo Merisi da CARAVAGGIO
オッタビオ・レオーニ 筆
青い紙に赤と白のチョーク 23.4X16.3cm
フィレンツェ Biblioteca Marucelliana 所
 CARAVAGGIO (1571?〜1610)
 ( Michelangelo Merisi da CARAVAGGIO )
                                 
 本名: Michelangelo Merisi (ミケランジェロ・メリージ)
 通称: CARAVAGGIO(カラヴァッジオ)    
 愛称: Michele(ミケーレ)

  イタリア北部ミラノに近いベルガモ県CARAVAGGIO村出身



1571年? ベルガモ県カラヴァッジオ村出身の石工(建築家?)フェルモ・メリージの長男としてミラノに生まれる。母はフェルモの2度目の妻、ルチア。
        
1577年 6歳の時、父フェルモ死去。
      
1592年 画家シモーネ・ペテルツァーノの工房でのミラノ徒弟時代を経、ローマへ移住する。
    
1593頃 画家ジュゼッペ・チェーザリ・ダ・アルピーノの工房に入る。
 「病めるバッカス」「果物籠を持つ少年」等 制作。
     
1595〜 デル・モンテ枢機卿に紹介され寄寓(所謂、画家とパトロン)。ヴィンセント・ジュスティニアーニ候等の保護を受け数々の作品を描き名を挙げる。「果物籠」もこの頃の制作。
   
1599年 7月23日、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂に「聖マタイの召命」と「聖マタイの殉教」の制作を依頼される(1600年完成)。この作品の成功により名声が一挙に広まる。
 
1603年 画家バリオーネから誹謗の罪で訴えられる。   
  
1604年 レストランの給仕を傷つけて逮捕。
  
1605年 女性問題で投獄されるが、すぐに釈放。一時ジェノヴァに逃亡。
「ロレートの聖母」制作。
  
1606年 「聖母の死」の制作。聖母の死を「死体」として描いたため、批判とともに受取り拒否される。
球技が原因の喧嘩で、友人を殺害し、5月31日ローマを逃亡。パリアーノ方面に逃れる。「エマウスの晩餐」の制作。
  
1607年 ナポリに逃れ滞在。マントヴァ公に仕えていたルーベンスが公の為に「聖母の死」を買い上げる。
  
1608年 マルタ島に渡り滞在。「聖ヨハネの斬首」などの作品を描く。その功労によりマルタ十字章を受け騎士となるが、某騎士との争いにより投獄される。10月脱獄、シチリアのシラクサに逃れる。「聖女ルチアの埋葬」を制作。
  
1609年 メッシーナ滞在。「ラザロの復活」「羊飼いの礼拝」を制作。10月20日ナポリに戻る。ローマにてマントヴァ公を中心に恩赦の気運が高まる。
  
1610年 恩赦を待ちながらも、7月18日スペイン領ポルト・エルコーレでマラリア熱のため死去。7月31日ローマ教皇の恩赦が発行される。
   



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